今回お話を伺ったのは、愛知・三重県で二つの施術会をコーディネイトされた、フランチャイズの田中智博さんです。さまざまな職を経て、世界各地でも仕事をしていた田中さんが、CS60の施術者になるまでの経緯を伺いました。
―田中さんはもともとどんなお仕事をしていたのでしょうか?
田中:僕は多摩美術大学を卒業し、フリーランスで展覧会制作運営の仕事をしながら、学芸員になりました。その後、アートトイなどをミュージアムショップに卸すおもちゃ屋をはじめ、それとともに、皆既日食の魅力を伝える書籍の出版、執筆業、音楽やアートイベントの企画制作、芸能人のマネージャーなどさまざまな仕事をしてきました。
―主に表現活動を支えるお仕事をされていたのですね。
田中:そうです。それを12年程やって国際物流のグローバル企業に入社しました。
―全然違うお仕事ですよね。どうして就職されたのでしょうか?
田中:正直なところ、フリーランスで収入が不安定でした。その時期に近しい人から「一度、就職したらどう?」と助言され、36歳で初就職しました。学生時代から世界各地を旅行していたので、「いつかは海外に住んでみたい」と漠然と思っていたのです。就職して半年後、幸運にもインド・デリー支店への勤務が決まりました。インド全土を営業範囲に持つ営業マンとしてデリーで4年過ごし、その後台北へ。1年半後にバンコクに行き3年半住んでいたので、合計9年程海外で過ごしたことになります。
―同じ会社での転勤だったのですか?
田中:デリーと台北は同じ会社です。台北で退職後、現地で転職活動をしてバンコクに勤務先をみつけ再移住しました。バンコクでは念願のマッサージの勉強もできたんです。
―どうしてバンコクでマッサージの勉強をされたのですか?
田中:まず、展覧会の仕事をしていた20代後半のある日、「マッサージの仕事をしたい」という考えが、ふとやってきたんです。時が過ぎ、台北で退職後にレイキを学び、バンコクでの転職期間中、「このタイミングだ!」と思い立ち、ワットポー・タイ古式とスウェディッシュ・マッサージ、それに国際ライセンス・CIBTACの資格を短期間で3つ取得して、施術者としての基礎を身につけました。
―インスピレーションがあって、さまざまな技術を身に着けたのですね。それを新しい就職先で活かしたのでしょうか?
田中:いえ、再転職先は半年程で退職してしまいました。本来向いていないサラリーマンを海外で無理して続けたことが影響し、バーンアウトしてしまったのです。過度のストレスで腹部はガチガチ、副腎疲労もひどかったはずです。その後約2年間、次の仕事や目標を決められず不毛な日々を過ごさざるを得ない状態でした。
―無理しすぎて、燃え尽きてしまったのですね。向いていない仕事は、時に心身を痛めつけることがありますよね。休職中、生活費の工面は大変だったのではないですか?
田中:貯金が底を尽き、人づきあいもうまくいかなくなった時に、「これはヤバいな」と心底思いました。それで導かれるように、冬至の日に伊勢神宮の五十鈴川に掛かる鳥居の中央から上る日の出を拝みに行ったのです。そこからリスタートが起動しました。3ヶ月間、毎月100㎞走るプログラムを始め、禅寺へ座禅をしに出かけ、たくさんの物を処分して身の回りを整理しました。最も効果があったのは、同居する母をより大切にしはじめたことです。
―疲れ切っていた心身がリセットされ、前向きなエネルギーが湧き始めたのでしょうか。
田中:そう思います。有機酸検査を受け、その結果から小麦・乳製品・白砂糖を断ち、サプリメンタル療法を取り入れ、次第に本来の自分を取り戻しはじめました。CS60との出会いもこの頃です。そして冬至から約3カ月後に、名古屋の老舗マッサージ店で働くことになり、仕事へ復帰しました。
仕事の初日に「1年間で1,000人揉む」と目標を立て、日々お客様のお身体から多くを学び手技の向上にはげみました。退店までの約1,300名の施術を通じ、施術者としての自信を得ました。そのお店は市内約50軒のホテルへ出張サービスもしており、様々な環境で施術する能力を身につけたことも、現在のCS60の施術スタイルに役立っています。
―CS60と出合ったきっかけは何ですか?
田中:高城剛さんの「高城未来ラジオ」というポッドキャストを聴いて施術を受けに行きました。心身すべてに今までにないインパクトを感じましたが、特に首への施術で、声が全く出ないほどの激痛とともに、そこに詰まっていた何かから解放された印象があったのです。そして、西村先生とおかみさんのサポートを受けてフランチャイズになり、CS60の施術者になりました。
(つづく)