西村先生は山梨県にたくさんご恩を感じており、その始まりはおかみさんとの出会いにあるそうです。そもそもどういう出会いだったのか聞いてみました。
―おかみさんは「CS60の影の守護神」と呼ばれていますが、西村先生との出会いはどういうものだったのでしょうか?
松橋:話せば長くなるんですけれど、数年前、山中湖の地元の名士の方のお見舞いに行きました。彼は腰を悪くされ、このままだと車い椅子の生活になってしまう状態でしたが、お知り合いの方からCS60を紹介されたそうです。
西村先生はその頃、赤坂のマンションの一室を借りてサロンを始めていました。
そこにその方が行くことになり、「信用できる松橋さんについていってもらいたい」と頼まれたのがきっかけです。
―山梨県から赤坂のサロンに行くにあたって、付き添いをお願いされたのですね。
松橋:そうしたら目の前で答えが出ました。
1回で良くなったのでそれで終わりかと思いきや、その方に「西村先生が何者なのか、松橋さんがもう少し通って検証してくれますか?」と頼まれたんです。
本物だということはわかっていたのですが、報告書がほしいということなので、山梨県から毎週1回、赤坂のサロンに通いました。
そのうち、特急までの時間に余裕があるときは、トイレの掃除をしたり、お客様にお茶を出したりするようになったんです。
―そのころは西村先生お一人でされているでしょうし、接待まで手が回らないですよね。
松橋:全然手が回らないので、勝手にお世話をしていました(笑)。
そのうち、私がおそば屋さんのおかみさんだという話になりまして、「僕はそばが大好きだから」ということで、逆に先生が山梨県に来られるようになりました。
―何度かFLさんのインタビューに出ている『松扇(しょうせん)』ですか?
松橋:『松扇(しょうせん)』です。
本店が東京都中野区にあるんですけど、そこはお弟子さんに任せて、山梨県の西湖にある支店を切り盛りしていたんです。
富士山の水を使ったこだわりの手打ちそばを出すお店で、「日本一」と評判でたくさん取材も受けるくらい有名なお店でした。
―そこに西村先生がいらっしゃったんですね。
松橋:富士山を見ながらおそばを食べたり、そば焼酎を飲んだりして一日過ごされていました。そこで、いろいろなアイデアを練っていたりしたのかもしれないですね。
時には体の悪い人も訪れますから、そのうち西村先生が松扇の2階で施術するようになったんです。
ただ、それもおそばが終わった後ですね。
お店が忙しくなってくると、西村先生もおそばを打つようになったので。
―西村先生がそば打ちを!?
松橋:割烹着を着てそばを打っていたので、CS60の先生じゃなくてそば屋の大将だと思われていました(笑)。
お店があまりにも忙しかったので、西村先生が見かねて協力してくださるようになったのです。
ベンチを作ったり、看板を直したりして、自分のおそば屋さんみたいに熱心にしてくださいました。そのうち、そば打ちの体験教室の講師もしてくれたのです。
―そば教室の講師までしていたんですか。
松橋:うちの店にも指導者がいたんですけど、忙しいから西村先生にお願いするようになったんです。
学生が20~30人くることがあるんですけど、西村先生はすごくお話がお上手でしょう?
体験会では、自分たちが打ったそばが食べられて、先生が笑わせてくれるので、毎回とっても盛り上がったんです。
ある時、商工会議所の御一行様がいらっしゃったときに、私が思い切って「実は今日そば打ちを教えてくれた先生には、本当の姿があるんです」と発表しました。
そこに何も知らない先生が「できたぞ!」とおそばを持ってきたんです。
みんなでそばを楽しく食べながら、「先生の本当の姿を見せてくださいよ」という話になりました。
そこで西村先生が何人か具合の悪い方を施術したら、みんな良くなったので、皆さんビックリして帰りました。
そのきっかけで熱海の石井さんが勉強に来られるようになったんです。
参考:Newsletter Vol.44 石井好子さんインタビュー(前編)
Newsletter Vol.44石井好子さんインタビュー(前編)
松橋:それからあまりにも大勢の方が来られるようになったから、そば屋の2階ではできなくなりました。
そうしたら「森のようちえん」という学童保育園を運営している方が、日曜日の空いている時間を貸してくださいました。
それが「寺子屋」です。何もないところに3台ベッドを置いて地元の方々を施術しました。
その後、本格的にCS60を広げるために、拠点を東京に移すことになりました。
(つづく)